この世界には悪(あく)があって、悪はいつも悪いことをしていた。
それをやっつけるのは正義──勇者だ。
僕は、勇者になる。
少年が1人親の付き添いも無いまま平原を歩いていた。この時代の一人歩きは大の男でも珍しい。ちょうどその場を通りすがった男たちは不思議そうに少年を見る。なんと物騒なことだろう。
「坊主!ここら辺りは危ないぞ。親御さんはどうした。はぐれたのか?」
少年は隣で動きを止めた馬車を見上げる。声をかけてきた男は恰幅のいい人のよさそうな雰囲気の男で、よほど少年を心配したのか馬車の窓から上半身を乗り出している。
少年はきょとんとした表情を一変させて笑った。
「知ってるよ。それに僕は最初から1人きりだし……今はどこだって危ないでしょ?」
無邪気に笑う少年に果たしてその意味を少年は理解しているのかと男は疑問に思う。男の隣に座っていた少年と同じ年頃の少女も眉をひそめながら少年を見ている。男と同じく馬車から顔を乗り出そうとした少女を男は優しく押して馬車に戻した。
少年はそんな光景を目を細めて一瞥したあと、背を向ける。
このままでは賊に襲われかねない。
気を揉んだ男は慌てて少年に声をかけようとする、そのときだった。蹄の音が四方八方から聞こえてきた。荒々しい音に先程まで無邪気に笑っていた少年の顔は能面のようになり、馬車にいた者達は恐怖に顔をひきつらせる。馬車を走らせようにも、すでに周囲には逃がさないといわんばかりの形相で道を塞ぐ賊がいる。道は断たれた。興奮した馬が馬車を揺らす。
賊は5人しかいなかったものの、その手に握られ鈍く光る剣が男たちに恐怖を刻みつける。
しばらく無言が続いた。誰かが喉を鳴らす音以外はその場にいる者全てが無言で、ただなにかを待つようにして、獲物を、賊を睨みつけていた。
すると耐えられなくなったのか御者が悲鳴を上げながら手綱を振り上げた──その瞬間、御者は握りつぶされたような息を吐き落馬した。いつのまにか御者の隣に並んでいた賊がいとも簡単に切り殺してしまったのだ。驚き前足を上げ混乱する馬も、賊の手綱さばきで落ち着きを取り戻していく。平原に倒れていた男は動かなくなった。
終わったと、誰もが思っただろう。賊が満足そうに笑みを浮かべ馬車を覗き込む。
「な!」
しかし、馬車の中に潜んでいたらしい騎士が躍り出て馬車に近づいてきていた賊に剣を振り下ろす。少女が叫び声をあげる。血飛沫をあげる仲間に賊は腹の底から声をあげ騎士に立ち向かっていった。囲まれる騎士を眺めながら笑うのは御者の代わりに居座った賊だ。賊は台から降りると顔に笑みを浮かべながらひどくゆっくりとした動作で、開いていた馬車のドアを覗き込んだ。
「さあさあお嬢さん。そんなところにいないで外に出て御覧なさい」
「こ、来ないで!」
「のけ!娘に近寄るんじゃないっ!」
娘の体を舐めまわすように見る賊の前に短剣を持った男が立ちはだかる。賊は面白そうに笑い声をあげた。
「お父さん、邪魔だよ」
躊躇無く帯剣していた剣へと手を伸ばす賊に男ももう戸惑ってはいられない。身を守る為、娘を守る為、震える手に握る剣を男へと突き出した。
「ぅ゛、え?」
漏れた声は男の声。背後では可愛い娘の息を呑む声が聞こえる。男の眼に映るのは己の震えた腕と、その先にある短剣と、短剣を半分以上飲み込んだ賊の体と、そこから漏れる血の色。
本来ならば刺さるはずは無かった。
男は商売にかけては自負するところはあるが、剣を握ることに関しては全く駄目だった。剣を握ったことなど一生に3.4度のものだ。そんな男が略奪を生業として常日頃から剣に慣れている賊を倒せるはずがない。
自然と、視線が上へと上がっていく。娘の甲高い叫び声が響く。
そこには下卑た笑みを浮かべた男がいるはずだったのに、見えたのは空だった。地上で起きている惨劇などそ知らぬ顔で青々と輝く空。血が顔に降りかかる。
「……汚いなあ」
その場にそぐわない幼い声に男は身震いした。
もしかしたら先程自分が殺されると知ったあの恐怖よりも、強い恐怖を抱いたかもしれない。知らず力を入れ続け握り締めていた剣を手放す。体に力が入らない。荒くなっていく息に気を失いそうになった。無意識のうちに賊の体を遠ざけようと押していたのか、支えを失った賊が馬車から離れて倒れた。血が平原を染める。
男は、見た。
先程まで無邪気だと思っていた少年の手に、真っ赤に染まった自分のものよりも長い剣があるのを。そしてその隣にごろりと転がっている、先程まで自分達を脅かしていた賊の顔。下卑た笑みのままで、余計恐怖が煽られる。
「危ないから気をつけないと駄目だよおじさん。もっといっぱい騎士を雇わないと……死んじゃうよ?」
にこにこと笑う少年はおそらく善意でそう言っているのだろう。血に染まった剣を持ち体にこびりついている血を拭う少年は、恐ろしいことに先程と変わらず純粋な瞳で男を見上げている。
「お怪我はありませんか!?」
離れた場所から騎士が走ってくる。男は一瞬救われたように表情を緩め、少年から目を逸らし騎士の元へとふらつく足をむける。いま自分が向かっている騎士も少年と同じように血みどろだというのに、なぜか男は安堵を覚えていた。
「ね、ねえ。あなた、怪我はないの?」
残された馬車の中、少女が恐る恐る少年に問いかける。眼下にいる少年は首をかしげた。
「うん。僕は大丈夫だよ?」
おそらくそれは本当のことなのだろう。にっこりと邪気なく笑う少年を見て、少女は恐怖を覚えながらもほっと胸をなでおろした。そしてハンカチを取り出すと、そろそろと少年に近づいて、顔についていた血を拭った。少年は驚いているのか目をパチパチと瞬かせながら少女を見ている。
「助けてくれてありがとう。ごめんね、ごめんね……」
少年は、不思議そうに少女を見上げる。
なぜこの少女は自分に謝って、こんなに辛そうな表情をするのか。
赤く染まった少年の髪が本来の金の色を取り戻していく度に、少女の手にあるハンカチは赤く染まっていく。
「……もう大丈夫だよ?ありがとう」
汚れていくハンカチに気が咎めて少年は少女の柔らかな手を推す。少女はより一層悲痛な顔をした。
「あなたはこれから、どこへ行くの?」
少女が少年の手を両手で握り締める。少年はこのとき初めて悲しそうに笑った。
「……分からない」
「じゃあ私たちと一緒に旅をしない?きっと楽しいわっ!あなたといたら私も嬉しいっ!!私とお父さんは商売をしながら落ち着ける場所を探してるのよ。私はナーシャ!ねえ名前を教えて?」
少年は驚いて目を見開く。考えもしなかった申し出だったからだ。
だがそれも数秒で、少年はまたにっこりと笑った。
「ありがとうナーシャ、僕はヴァン。……誘ってくれたのは嬉しいんだけどね、僕はしたいことがあるんだ。だから行かない」
「したいことって……?」
ヴァンの笑みに気が緩んでしまったのかナーシャの手に込められていた力が僅かに抜けた。すかさずヴァンは少女から離れる。
「僕ね、勇者になるんだ」
そういってヴァンはニッコリと笑った。
瞬間、ナーシャの胸に言い表しようもない衝撃が走る。理由は分からないものの拒絶されたことだけは分かった。それは単純にショックではあったが、それ以上に恐怖と悲しみを覚えた。ナーシャにはヴァンを引き留める言葉が思いつかない。なのに引き留めなければ駄目だと思う。なのに、それが無理だというのが分かるのだ。
喉元まで声が出かけたが、結局、ナーシャには声を出すことができなかった。ヴァンとナーシャはしばらくの間お互いの顔を見合って、最後にはナーシャが泣きそうになりながらもなんとか笑って、震える声で別れを告げる。
「が、頑張って……ね。頑張ってね」
「……うんっ!」
ナーシャの激励にヴァンは無邪気に笑った。
「じゃあねっ!」
そして呆気なく踵を返そうとする。ナーシャは慌てて引き留めた。
「待ってヴァン!お礼をさせて……っ!」
おそらくもう二度と会うことはない。ナーシャはなぜか確信していた。広い大陸だからというだけではないのだ。
もう会えない。
「お礼……?うーん、それじゃあナーシャのハンカチ頂戴?」
「え?」
「駄目かな?」
「いいけど、これでいいの?」
「うん、それが欲しい」
ナーシャが戸惑いつつも真っ赤に染まったハンカチを渡せば、ヴァンは本当に嬉しそうに笑った。作り笑顔には感じなかったからこそ、ナーシャの胸に痛みが走る。ヴァンは手を振りながら歩き始める。ナーシャは堪らず叫んだ。
「頑張って!頑張ってねっ!叶えてねっっ!!!」
ヴァンはナーシャの叫びに面食らっていたが、その後、照れたようにして頭を掻きながら笑った。
そして一つ頷くとそのまま走って行った。
「どうしたんだっ!ナーシャッ!!?」
叫び声を聞いたのか、父親が血相を変えて走ってくる。
だがナーシャは父親の呼び声を無視したままひたすら泣き続け、ヴァンの背中を見送った。手についた赤い血を、ぎゅっと握りしめる。
++++
「ナーシャおばちゃぁーん見てみてぇー!!勇者様のお話ー!読んでよー!」
茶色の髪を跳ねさせながら一人の少年が走ってきた。真っ赤になった頬で嬉しそうに緩む口元は微笑みナーシャに早く早くとせがんでいる。少年の手には絵本があった。
「あらあら、また?」
「いいから読んで読んでー!」
「分かったわ。昔々──」
少年は絵本の挿絵を見ながら話を聞いていた。だからナーシャの顔が歪んでいることに少年は気がつかない。少年はただ勇者を見ていた。
「──そして、勇者様はとうとう世界に平和をもたらしたのでした」
絵本の続きはもうない。
話が終わってもまだ余韻が残っているのか、少年はほうっと息を吐きながら勇者を指でなぞった。
「僕も勇者様みたいになりたいなあー」
そのとき背後で少年の母親の怒鳴り声が聞こえた。なにやら手伝いを放り投げたことに怒っているようで、少年はその声を聞いて血相を変えたかと思えば寝転がっていた身体を起こしてドアへと一直線に走り出す。絵本を置き忘れているのだが気がついていないようだ。ナーシャが少年に声をかけようとしたとき、無邪気な笑顔が振り返った。
「あ、読んでくれてありがとう、ナーシャおばちゃんっ!!」
そして少年はそのままドアを閉めて出て行く。
ナーシャは騒がしい少年に呆気に取られながらも、おかしそうにクスクスと笑う。だがそれも束の間。目に映った絵本を見て笑みは泣きそうな表情へと変わる。
ナーシャは絵本を手に取って、パラパラと適当にページをめくっていく。そしてちょうど勇者様の似顔絵が載っているところでその手は動きを止めた。
勇者様は黒い髪だった。
金髪ではない。
勇者様が世界に平和をもたらしたあと、それは人々に伝えられて本になって数年後には世界に広く伝わることとなった。その本のどこにも、金髪の勇者様はいなかった。
ナーシャは昔、自分を救ってくれた金髪の少年を思い出して涙を流す。
少年は、勇者はどこにもいない。
──これは、語られることも描かれることもなかった勇者の物語である。