──俺は、あなた方の悪魔にもなれるらしい
「お前は小さい頃から俺の後ろをついてきたな」
ガキッ、と耳につく音が響き渡る。唸るような野次が四方八方から飛び交い、辺りは妙な熱気に包まれていた。
「そのたびにあいつらはお前を俺から遠ざけようと叫んでいた。……耳障りで仕方が無かった」
黒い髪が数本切られて風に飛ばされる。頬には小さな線が刻まれ赤く染まっていった。
「いつも、いつも、いつも……!」
ほんの少し気を緩めばその先には死が迫る状態だった。だというのにラッジュは淡々とした口調で語りかけてくる。……そしてクォードはその話を一言も漏らさないように耳を澄ませ聞いていた。
ラッジュが昔話をすれば、そのときの光景が蘇る。
楽しくて、幸せだった。
勿論嫌なことも辛いこともあったが少なくとも笑い声が響いていて大切な日常だった──だけど、
ラッジュは?
思い出した両親とラッジュの顔にクォードは胸が痛むのを感じた。ラッジュも同じ気持ちだったのかクォードには分からなかった。そうでなかったからこんな事態になったとも考えられる。だけど……。
なにかがひっかかって断言できない。それにクォードは昔ラッジュが笑いかけてくれたあの笑顔が嘘だとは信じたくなかった。
『クォード』
そう呼んだラッジュはいつも優しい笑みを浮かべていた。クォードが剣の使い方を教えてくれといえば、困ったように。リグラが来たと伝えれば嫌そうに、けれど面白そうに笑っていた。
剣が交差して割れんばかりに音が響き渡る。
視界を埋めようとする剣の合間からお互いの顔が見えた。クォードは目を見張る。ラッジュは笑っていた。
……俺もおかしいのかもな。
クォードも笑う。クォードもラッジュも隙あらば殺そうと伺っている。歪んだ笑みはいままで見てきた賊とまるで同じで──
『僕ね、どうしても許せないんだ。……あいつらだけは許せない』
クォードの剣が一瞬圧される。思いがけない好機にラッジュは仕掛けようとしたが、クォードがなにか言いかけたのが見えて止める。剣はまた拮抗した。
クォードはラッジュを見据え様子を伺いながらも内心ひどく動揺していた。今の今まで忘れてしまっていたことに気がついたのだ。金色の髪をもった幼い少年。子供のように五月蝿いだけならよかった。でも無表情に、ときには憎悪を込めて「許せない」「殺す」と言い続けていた少年──ヴァン。
小さなことでおちゃらけて笑ってみせ、本心を隠そうと笑っていた。そして最期は本当に笑って死んだ少年。
『……じゃあ、クォードは僕のお兄さん?』
言うはずじゃなかった言葉が口から滑り落ちる。
「ラッジュ……俺は、お前を兄だと思っていた」
いまもそう思っている。
「ああ。俺にとってもお前は弟で俺の唯一の家族だった」
「っ!」
皮が切られて血が飛ぶ。鋭い痛みと剣についた真っ赤な血にクォードはまた昔のことを思い出した。土で汚れているだけだった家の床に広がっていた真っ赤な血。その真ん中で俯くラッジュの姿。
──違和感。
もがき苦しみ床を這う両親をただじっと見つめていたラッジュ。
──違和感。
片手に血の滴る剣を握って立っていた。
──違和感。
汗と血で剣が滑る。はっとして、クォードは剣を握りなおし間合いをとった。ラッジュもすでに血をあちこちから流していたが気にもしていないらしい。無感情な瞳でクォードを見ていた。ラッジュもクォードと同じように昔のことを思い出しているのか、独り言のように呟く。
「でもしょうがねえじゃないか。殺したくて仕方がないんだ。例え家族だろうがなんだろうが、俺はお前を殺したくてしょうがないんだ。……違うかな。家族だからこそこの手で殺してしまいたい。……お前は俺の家族だろ?」
「ラッジュ」
どうしてだろう。
台詞と同じようにしラッジュは容赦なく剣を振り下ろしてくるというのに、なぜかその姿は痛々しく見えて、殺したいではなく殺してくれてと言っているようにクォードには聞こえた。
『俺を殺してみろよ』
……あの日ラッジュがクォードに残した言葉はいまもクォードの心を縛り付けて、目的を達成させようと何度も息づく。殺せ、殺せ、殺せ……殺してくれと。
だけど、
「ラッジュ」
あの日、
あの日、
あの日……っ!
血に染まった場所で立っていたラッジュは──泣いていた。足を斬られ腕を切り落とされた両親が呻く姿を見ながら泣き続けていた。そしてクォードは初めて知ったのだ。
自分が無知だったこと、それがいかに残酷だったかを。
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……っ。
クォードはあの日、心の中で兄に向かって叫び続けた気持ちを思い出した。
あの日──静かな村の外れにある我が家から恐ろしい声があがった。肌が粟立ち駆け寄るのを躊躇したのを覚えている。それでも間隔を置いて聞こえてくる物音に震える体を走らせた。
そして見つけた血まみれの光景に足は今度こそ動かなくなる。父が倒れていた。ぴくりとも動かない。なぜか離れた場所に、よくぶらさがった大きな父の腕が転がっている。意味が分かって、意味が分からなかった。ただもうこれ以上なにも見たくなくて目を瞑ろうとしたけれどそれさえできない。壁に隠れていて見えなかった母の姿が目に映った。片腕の無い母がなにかを呟きながら床を這っていた。その横顔は遠めにも分かるほど恐怖に刻まれていて、ただただ怖かった。
「にい、さん」
そんな異常な光景の中、ラッジュがいた。ラッジュは真っ赤な血のついた剣を持っている。不思議な光景は続いた。ラッジュはそれを母の背中に突き刺したのだ。母は父と同じように動かなくなる。
静かな静かな時間。
動けなかった。動いたら、気づかれる。気づかれたら殺される。震えさえ気がつかれそうで頭がおかしくなりそうだった。
「はは」
間違って声を出してしまったのかと思った。だけど、声を出したのはラッジュだった。狂ったように笑う声が家の中に木霊する。恐ろしい笑い声を聞きたくなかったけれど、動けない。見たくなかったけれど、目が離せなかった。ラッジュが泣いていた。
初めて見たラッジュの涙に、ふいに思い出したのはクォードにとってはなんでもない日常だった。日常に見たラッジュの顔が浮かんでは消えていく。
両親に呼ばれた俺の姿を見るラッジュの顔、外で傷を作って一人で手当てをしているときのラッジュの顔、危険な奴らとつるんでからふと見せるようになったラッジュの顔、両親の横を無言で通り過ぎていくときのラッジュの顔──全て泣きそうで寂しそうな顔だった。
両親はラッジュを嫌っていた。
でも、ラッジュは両親を嫌ってなんかいなかった。むしろ自分の存在を認めてほしかったのだと思う。勉強でも、武術でもなんでもこなせるラッジュはそうなれるまでに見ているこっちが辛くなるほどの努力をしていた。
『クォード。勉強をして損することはない。これから武術のみならず知識も必要となる。だからしっかり勤しめよ』
父が俺にそう言ったのはいつのころだったか。
兄はその頃から勉強をするようになった。
『クォード、強くなったわね。その力で私を守ってちょうだい』
母が笑いながらそう言ったのはいつのころだろう。
兄はその頃から更に剣を多く振るうようになって、いつしか外にまで出て、危険な奴らとまで剣を合わすようになった。
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……っ。
俺が両親を奪ったんだ。
「ラッジュ……!」
「……クォード。あの剣を、どこへやった?」
ラッジュが変わったのは、こうなったのはあの日の少し前から。
父が大切にしてきた黒い剣を、父が俺にくれたあの日。
ラッジュはあの日からいままでずっと両親を追っていた視線を横に逸らすようになって俺の顔も見なくなった。ラッジュは黒い剣だけを見ていた。
「もう俺は持っていない」
「っ!?」
一段と重くなった剣を受け止めて返す。
痺れた手の分だけラッジュの想いを今更になって思い知る。
「どこへ、どこへやった……!誰にっっ!!!」
血走った目がクォードを射抜き、振るわれた剣の残像が視界にちらつく。クォードは直感で振るわれた剣を避け、自らも剣を振るった。
その剣はラッジュの長い髪を縛る紐を数本の髪と共に切り捨てて宙を切った。
紐から解き放たれた長い茶色の髪が風にふわりとなびき、ラッジュの頬を掠める。その姿にクォードは思わず目を細めながら見入った。
年を重ねて再会したラッジュは父の面影を色濃く映し成長していた。
父と同じだといっても過言ではないその風貌は、いまはクォードを怒りに染まった表情で睨みつけている。
「あの剣は大切な人間に託した」
もう死んでしまったが。
ヴァンの平和を、生を望んで渡した俺の宝……。
死んだヴァンが剣を握ることなんてできやしないが、もしあの世があるならばその世界で、剣と共に逝くことでまたその手に剣を握り振るうことができるんじゃないだろうか。今度は大切な家族のいる隣で、家族を守るよと言いながら真っ白のハンカチを結んだ黒いあの剣を振るうんじゃないだろうか。
それは一つの平和で幸せじゃないだろうか。
──なあ、ラッジュ。お前はそんな幸せがあるだろうか。お前が望んだのは剣じゃないだろ?剣を持つ父と、微笑む母じゃなかったか……?ヴァンのように願っていたんだろ?
ごめん。ごめん……。ごめん。
なあラッジュ。
……兄さん。泣くな。
クォードは睨みつけてくるラッジュの目から涙が零れていくのをただじっと見ていた。顔に付いていた血を吸い上げて赤く染まった涙がポタリポタリと地面に落ちていく。
「殺してやる、殺してやる……!いつもいつもいつもいつもお前は簡単に俺から全てを奪っていくっ!!!」
地を震わせるような叫び声を上げてラッジュが何度も剣を振り下ろす。線となった剣が何度も現れては消え、どこかにその痕を残していく。
『いいか、クォード。お前にこの剣を譲るが決して忘れてはいけない』
黒い剣を渡されるとき父に言われた言葉。目の前のラッジュに重なって、いつのまにかクォードの頬にも生暖かいものが伝った。
『自分の目的を忘れるな。今の世はどこもかしこも危険で気が付けば死んでいても別におかしくはない。その中でお前はなにを想ってなんのために剣を使う?目的を忘れるんじゃない。忘れてしまえばただ無しか残らないよ』
そして、悲しげに笑った父の顔。
父が剣を振るうことはあまりなかった。そのときの姿を目にしたことも数回ぐらいしかない。
父は、目的を見失ったのだろうか。
『私は、守れなかったよ。……すまない。私はお前に託してしまう』
なにを?
そう問えば父はちらりとドアへ視線を移した。つられて振り返ってもそこにはなにもない。閉まっているドアがあるだけだった。
そして、父は言った。
『ラッジュを頼む。あの子にこの剣を渡すことはできない。……そうすればあの子はこの剣に囚われていつまでも縛られてしまう。すまない、クォード。私はお前にこの剣を託す』
父の言っていることはよく分からなかった。
ただ戸惑ったけれど、それがすごく大切なのだと肌で感じて、ごくりと息を飲んでから震えた手で剣を受け取ったことは覚えている。
母はただ無言のまま唇を噛み締めて、俺が剣を受け取るのを見ていた。その視線を受け止めながら、俺はこの剣を授かるということがとても重いものなのだと感じてやはり震えた。
そしてようやくいま、その意味を理解した。
「死ねぇぇっっ!!!クォードッッ!!!!!!!!」
──最後はいつだって一瞬だ。
体に音のない音が鈍く振動する。手から伝わる血の流れ、脈打つ鼓動。弾む肉、震える身体。
「カッ、……ハッ」
ずしりと感じるその重さ。
「ラッジュ」
喉に詰まったらしい血を吐き出そうとして咳き込む姿を、クォードは別の誰かが見ているような感覚で見ていた。
「ついこの前、一人の少年が死んだんだ。……ヴァンという名の小さな少年だ」
「ク、ォ、……クォードォッッ!!!!」
半分まで食い込んでいた剣に構わず更に身に沈めながらラッジュがゆっくりと近づいてくる。もう、言葉は届いてはいないのかもしれない。
「ヴァンは目の前で両親を殺された。母は斬り捨てられ、父は自分を庇いながら死んだと言っていた」
ピクリ、とラッジュが動きを止めて浅く早い呼吸をしながらクォードを凝視した。
その口からは空気を含んだ血が溢れている。
「一人になったヴァンは仇を討つために剣を振るって、人を殺めた。そしてずっと人を殺したことを悔いて泣いていた」
ラッジュは身動き一つせず、クォードを見つめている。
しかし剣を握っていた手はだらんと下ろされて、動きを止めていた。
「それでも仇を討つと言って剣を握っていた。だが、死んだ。リグラと相打ちしてな」
「リグ……ラ…。あい……死ん……ん…だ、な」
ラッジュの頬に涙が伝った。その目は虚ろでなにを映しているのか、もはやクォードでも分からない。
「ヴァンは最期には笑っていた」
「……」
「仇も討っていない。まだまだ若かった。なのに、死の最期に笑ったよ」
「……」
「なあ、ラッジュ」
声もなくラッジュの身体が傾いてクォードに寄りかかった。嫌な感触が手に伝わってくる。剣が更にずぶりと体に沈み込んだ。
クォードはいまにも消えてしまいそうな息を聞きながらも剣を握る力を緩めはしなかった。
「大切なものを奪われて泣くのはお前一人じゃない。奪えば、奪われるんだ。お前のしてきたことで泣いた奴はヴァンだけじゃない。ヴァンのような奴は多くいる」
「クォ……ド」
「それでも、どんなことがあってもヴァンみたいに最期に満足して笑える奴もいるにはいるんだ。なあ、ラッジュはどうだ?……兄さん」
最後に呟いた声にラッジュが首を起こしてクォードを見上げた。その目はもう鈍い光しか宿っていなくて、血の気のないその顔からもう先は長くないのだと分かる。
「それで……も…おれ、は……おまえが……うら、や、ましかっ……たん………だ」
それは、突然だった。
ラッジュが一度だけ目を大きく開かせたかと思うと、ゆっくりと目を閉じていった。
「にい、さん」
閉じた目。
急に重くなった身体。
手から離れて落ちていく剣……髪が力なく揺れていた。
身体にもたれかかってきたラッジュの身体を受け止めながらクォードは一瞬時間が止まったような感覚に陥る。すべての色や感触、音、匂いが消える。
静寂を破ったのは誰かの叫び声。恐怖と怒り、様々な感情が入り混じった叫び声は連鎖して、わっ、と罵声と悲鳴が生まれ辺り一面を覆いつくしていく。
「あっ、ああ……」
クォードはたまらなくこみ上げてきた嗚咽をかみ殺して力の限りラッジュの身体を抱きしめる。周囲ではラッジュの死に動揺し、戦慄く者で溢れかえっている。
一人が逃げ、また一人が逃げる。
そして一人が奮い立ち剣を持ってクォードへと襲い掛かると、またそれに人が続く。叫びが響き、地を揺るがしていく。
『それでも俺はお前がうらやましかったんだ』
ああ。
兄さん、兄さん……。
目を閉じたラッジュは血にまみれてもう動かない。顔は泣いているわけでもなく、悲しそうでもなく、怒っているわけでもなく、笑っているわけでもなく……ただ無表情だった。
兄さん……っ!
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっ!!!!!!」
クォードはラッジュの身体から剣を抜き取り、襲い掛かってくる数多の剣に応えながら叫び続ける。
その姿は、あの日ラッジュが両親を殺したときととてもよく似ていた。
「あ゛あ゛あ゛!!!」
そして肉と化したものが転がる血の海でクォードは一人立ち尽くす。もうその場で息をしているものはクォードと、
「あ、ああっ!ラッジュ、ラッジュッッ!!!!」
ラッジュにすがる一人の女のみだった。
「ラッジュッッ!!!」
悲痛な声が木霊する。耳を塞ぎたくなるような叫び声を聞いているクォードは感情の無い目で泣き喚く女を見下ろしていた。
──ああ。そうだな、そうだったな、兄さん。ヴァン。
「許さないっ!許さないっっ!!!殺してやるっっ!!!!」
女が泣きながらラッジュの剣を手に取り、クォードに襲い掛かってくる。
……奪えば、奪われるんだ。
「ああああああああっっ!!!!!!」
クォードは振り下ろされた剣をなんなくかわし、女の細い身体を抉るようにして殴った。女は呻き声とともにその場に崩れていく。
クォードはその身体を支えながら呟いた。
「俺を、殺してみろよ」
+++++
その日からパタリと賊の動きが止まった。人々は家から出て光を浴び、涙を流しながら叫んだ。
平和が訪れた!
勇者が、世界を救った!
そして治安は徐々に安定していき人々に笑顔が戻っていく。
しかし人々は知らない。
勇者がどこへ行ったのか……誰も知らない。
勇者は、光を浴び輝く澄んだ湖の畔で一人横たわっていた。